PERSONS
THE INTERVIEW 有賀 誠門 / Makoto Aruga
東京藝術大学・東京音楽大学にて数多くの弟子を輩出し、まさに打楽器界におけるレジェンドの有賀 誠門氏。
アメリカへの留学、打楽器アンサンブルへの思いや、音楽を始められたきっかけなどを読売日本交響楽団打楽器奏者の西久保友広が、直接ご自宅にお伺いし当時の貴重なお話を語って頂きました。
インタビュアー:西久保 友広(読売日本交響楽団)
取材:パーカッションシティ山田 俊幸、平田 誠
写真撮影:d’ Arc 斉藤 順子
西久保(以下西):はじめに有賀先生が音楽を始められたきっかけを教えて下さい。
有賀 (以下有):長野県で小学校の音楽教師をしていた父の影響で、小学校一年生の時からヴァイオリンを弾いていました。
途中でヴァイオリンは辞めちゃうんだけども、理由は、父の指導が厳しくて。父は他にも剣道や水泳や川釣りなど様々な事を独学で学んでいる人だったの。その父が東京にいた時期があり、その時に小太鼓を小森先生に習っていて、家に小太鼓や撥、教則本もあったし、トライアングルやタンバリン、小さい合わせシンバル等があり、興味を持ってました。他に足踏みオルガンがあり、楽しんでました。蓄音機もあり、コロムビア、ビクター、テイチクで和洋音楽を聴いてましたね。
ヴァイオリンを父に習っていましたが、その指導がとても厳しくて、弾いてても練習してても楽しいと思えなかった。
そこで、ヴァイオリンを辞めたいと母に相談すると、特に反対はされず『しっかり自分の口で辞めますと言いなさい』と言われたので…。意を決して父と向かい合い正座して思いを伝えたら意外とあっさり『分かった』と。
その時に言われたのが、『代わりにピアノを弾きなさい』と。
これが実際に弾いてみるとピアノがとても面白くて面白くて。ペダルもあるし低音の深い響きや高音の美しい音色に虜になっていってずっと夢中に弾いていましたね。響き観はジャンベとつながります。
その後、長野県桔梗ヶ原高等学校(現・長野県塩尻志学館高等学校)に進学して、将来は新聞記者になりたいと思い受験勉強を頑張りたいと父に告げると、父から『勉強は後からでもできる。今音楽をやりなさい』と言われ、音楽大学を目指す事になりました。
当時家にはピアノが無かったので、父が勤めていた小学校で宿直の時にお弁当を届け、2時間練習をさせてもらい、さらに聴音も習っていました。高校生2年生の時、国立音楽大学の音楽大学受験の講習会に参加した際には、ピアノも聴音もまあまあOKをもらいまして手応えを感じました。
この講習会で私とティンパニとの衝撃的な出会いです。ちょうど学生オーケストラが、女性ティンパニ奏者でベートーヴェンの第九4楽章を演奏していて、竹内広さんという方でした。
その第九の演奏を聴いてあの楽器を演奏してみたい!!ともの凄い衝撃が全身に走りました。
その時にはまだティンパニなんて楽器の名前も知らなくて。
家に帰って父に『あの大きな楽器のティンパニをやりたいです。』って相談したら父は昔の人だったからチンパニって言ってましたね。(笑)
その父が『あのチンパニの基礎は小太鼓だ!』という事で、また父から小太鼓を習う羽目になり、その当時は練習台なんてありませんから、漬物石をのっける丸太を家の畳敷きの座敷まで持って来て、胡坐をかきながら叩いて練習していましたね。
当時我が家は私立の音楽大学に行ける余裕がなかったので、父からは『誠門は国立大学に進んで欲しい』との事で、東京藝術大学への受験を決めました。
父が懇意にしていた小森宗太郎先生から今村征男先生を紹介して頂きレッスンを受けることにしました。今村先生からコンクールを受けてみたら?と勧められて吹奏楽連盟主催の個人コンクールに挑戦して1位を頂きました。更に、小宅先生にも習って東京藝術大学入学許可を得ました。
西:NHK交響楽団入団のお話しを伺いたいです。
有:終戦後、日本交響楽団(日響)がNHK(日本放送協会)の傘下に入り、55歳定年制度導入となり、小森宗太郎先生が退職されるとの事で、東京藝術大学4年生在学時に網代先生からどうですか?と入団のお話を頂きまして、当時のNHK交響楽団打楽器セクションである小林さん、網代さん、小宅さん、池田さんの時代に私が学生ですが、入団する事になりました。1958年21歳の時でした。その後、1976年の退団まで在籍しました。
西:アメリカ留学のきっかけと留学時代のお話しをお聞かせ下さい。
有:1959 年に東京藝術大学を卒業して、NHK 交響楽団に在籍中の1963 年26 歳の時に、1 年間ボストンに留学しました。1ドル360円の時代です。2 歳になる娘、妻を残し、単身で貨客物船に乗ってサンフランシスコ、サンフランシスコからニューヨークまでは飛行機です。
アメリカに留学したいと思ったきっかけは、大学1年の時にG・ゲーバー氏(NBC交響楽団Timpanist)のプレイを観てから憧れて、アメリカの大学の入学案内を個人的に取り寄せて、カーティス、ジュリアード、マンハッタン、イーストマン、ニューイングランドだったかな?
それで、1960年アメリカ国務省派遣、C.ミュンシュ指揮ボストン交響楽団の日比谷公会堂公演を聴いてティンパニストV.ファースの演奏を聴き、見てアメリカに留学したい!という思いが更に強くなり、即行動しました。
旺文社、R.ハリス英文手紙の書き方の本も買ったりして、更には手書きではなく中古のタイプラーターを手に入れて、ちゃんとタイピングした手紙をソウルグッドマンや各学校に送りました。
その結果、ジュリアードとニューイングランド、マンハッタンの3 校に絞り迷っていた時、お友達のアメリカ文化センターの通訳の方から、ボストン交響楽団主催のタングルウッド音楽祭にNHK交響楽団の定期演奏会で演奏したミヨーのコンチェルト収録テープを送ってみたらどうですか?とアドヴァイスを頂いたので、早速タングルウッドの音楽祭事務局に送った所、奨学金OKの返答を頂き、招待での留学という形になりました。
アメリカに行く際に日本の打楽器として、締め太鼓と小鼓を持参する事を思いつき、渡米前に観世栄夫氏にレッスンをしてもらいました。タングルウッド音楽祭はオーケストラ、室内楽、合唱、指揮、作曲、現代音楽の6部門からなり、ラインスドルフ率いるボストン交響楽団はブリテン作曲の戦争レクイエム(アメリカ初演)を演奏し、受講生オーケストラにはヴァレーズ作曲のアルカナ、ストラヴィンスキー作曲の結婚等が用意されていました。作曲コースにはクセナキス氏が受講していました。ジュリアード弦楽四重奏団も出演していました。アーサーフィードラー率いる、ボストンポップスオーケストラなど、世界最先端の音楽活動を8 週間も体感する日々でした。
タングルウッド音楽祭でヴィックファース氏に初めて出会い、ちょうど彼がソロ・ティンパニストという教本を出版したばかりの時で、会ったその場でレッスンが始まり、教本だったりスティックを売り込まれましたね。(笑)
ヴィックファースに習う為にニューイングランド音楽院にいくか、打楽器アンサンブルを学ぶ為にマンハッタンミュージックスクールに行くかまたまた迷いに迷った末、奨学金の話しもあってボストンにあるニューイングランド音楽院に留学し、ヴィックファースに師事しました。
当時の出来事でとても衝撃的な事と言えば、1963年の11月頃だったかな?演奏会を聴きに行ったら、ジョン・Fケネディの暗殺事件とちょうど重なり、聴いていた演奏が急遽止まり、何事かと思っていたら場内アナウンスでケネディがダラスで暗殺されましたとアナウンスされ、そこから先程まで演奏していた曲を取り止めて、改めてステージマネージャーが楽譜を配り、ベートーヴェンのエロイカ第2楽章葬送行進曲を演奏するという、とても非日常的な経験をしましたね。
それからボストンの町は1週間JAZZもなく、全てクラシックの演奏で埋め尽くされていました。
いまでもあの光景はハッキリと覚えています。
アメリカ留学時代に日本とはまた違った最先端の音楽に触れた事や色々な音楽家に出
会う事で更なる閃きが芽生え、その中でもUP感覚に気付いた事はとても大きな出来事でした。今でも音楽とはなにかを日々模索していますから。
西:日本初の打楽器アンサンブル結成当時のお話しを伺わせて下さい。
有:1960 年NHK 交響楽団在籍中に東京パーカッション・アンサンブルを結成しました。
当時のメンバーはNHK交響楽団の打楽器メンバーを中心に結成して、結成のきっかけは、オーケストラだけの打楽器をずっと演奏はしたくないと常々思っていて、どうにか打楽器をメインにした、もしくは打楽器のみでの演奏会を開催できないだろうかと模索している時に、当時アメリカのマンハッタンミュージックスクールでポール・プライスさんが結成した、打楽器だけの演奏会を収録したレコードがある事を知り、ミュージックフォーパーカッションから発売されていた演奏レコードやアンサンブルの楽譜をYAMAHAにお願いをして、アメリカから取り寄せてもらったりしていました。その当時だとルーハリソンやジョンケージの曲などなどを演奏したかな。ちなみにポール・プライスさんのお弟子さんにはトム・ゴーガーさんもいて昨今の打楽器アンサンブルの礎を築いた方と思います。
西:藝大や東京音大の思い出は沢山あると思いますが、その中でも特に印象深い出来事など教えて下さい。
有:1976年にNHK交響楽団を退団し、東京藝術大学の音楽学部常勤教官就任依頼を受けて、副理事長であった有馬大五郎先生より裁可を頂き就任しました。
NHK 交響楽団を退団する最後の演奏会は、Works of R.Wagnerでした。
ちょうどその時は、徳永二男氏がNHK 交響楽団次期コンサートマスターに就任する時期と重なっていたと記憶しています。
藝大に就任する前から東京音楽大学の講師もしていました。まだ大学の名称が、東洋音楽大学だった様なちょうど東京音楽大学に改称された時だったかもしれません。
東京音大の講師就任時代には、今の様な打楽器用の専用部屋なんてものはなく、地下の隔離された場所に数少ない打楽器科の学生皆でこっそり集まってみたりしていました。
大学にある打楽器も1対のティンパニとバスドラム、サイトウのマリンバ1台しかありませんでしたから。そこから世間に打楽器アンサンブルを広めていくうちに、だんだんと打楽器の認知度も打楽器科の学生も楽器も増えていき、藝大にも負けない個性あふれる大学になったと思います。
藝大時代には、美術の宮田良平先生と懇意になり、藝大内で行われている鞴(ふいご)祭りというものに参加しまして、そこで鞴の歴史を知り美術科の物に対して感謝するという姿勢にとても感銘を受けまして、音楽の方でも何か感謝する様な事ができないかな?と考えた結果、打楽器科では太鼓供養を始めるキッカケとなりました。学期末に神主さんをお呼びして、折れたスティックや破けた皮や傷ついた楽器などを毎年供養し、感謝していました。
また新しい奏楽堂の建立にも関わる事となり、当時は旧奏楽堂を明治村に移転する計画案が浮上し、移転するか残すかの決断にも関わりました。
ユネスコ日本委員でもある前野堯教授の“建物は人間が使って活きる”依って存続に加勢し、奏楽堂でDemonstration by timpani 決行し、黛氏、芥川氏、岩城氏らの<奏楽堂を救う会>、鈴木都知事、内山台東区区長などの大物の登場もあり、大きな社会問題でもありました。
結局、内山区長の大英断により上野公園に建築遺産として残す事とし、今後も大いに活用するに決まりました。以後、藝大卒業生の人生の門出として重要な場となっています。
また新しい奏楽堂での出来事で特に印象に残っている出来事がありまして、
新奏楽堂が建設会社から藝大に移籍した時に、当時の斎藤一郎音楽学部長がポツリとつぶやき“ヨーヨーマの様な方に登場してもらえたらなあ…。”と。
丁度その時期に新潟市で彼の新しいプロジェクト<シルクロード音楽>が開催されていた事を知り早速、板屋音楽学部事務長と共に新潟へ向かい、公演後にヨーヨーマが直接会ってくださり、事情の説明と出演の交渉をしました。すると彼から“喜んでやりましょう”との言葉を頂き、題して<シルクロード音楽とチェロ特別公開講座>を新奏楽堂にて実施しました。
客席はもちろん満席で、チェロ専攻の学生へのとても大きなプレゼントとなる出来事でした。
新奏楽堂オープニングコンサートでは、現代音楽プロデユーサー野平一郎先生が<Xanakis;Persephassa for 6 percussions>をコンサートのトリにしてくださり、打楽器科学生には垂涎の作品であり、打楽器科存在意義の証明となったコンサートとなりました。
※最後に滝井敬子女史にはプログラム作成、広報、解説と重要な仕事をお願いしました。ここに心より感謝いたします。
その後は、打楽器科指導教官として常に“学生が実演できる場の確保”に努めました。
入学式で奏楽堂の演奏を得たのはとても大きな成果でした。打楽器音楽を新入生に聴いて、みてもらえるのですから。
他にも、大学美術館ロビー、取手校地開校式典、台東区ロータリークラブ、上駅・東京駅でのコンサート、椿山荘パーテイ、奏楽堂木曜コンサート、新奏楽堂ロビー、美術学部制作オブジェ陳列室、夏季には社会人の為の講習会などを開催。
縁があって、岩手県大迫町町長村田柴太氏より地方創生協力を依頼され、打楽器科総出で“今”を表現する場とし<小さな森のコンサート>と名付けてくださった演奏会も、コロナ禍2年のブランクがありましたが今年で34回目を開催しました。
優れた学生の誕生で、学内演奏、モーニングコンサート、新人演奏会、木曜コンサートなど、打楽器学生出演権を次々に獲得することができました。オーケストラ運営委員長、演奏委員長、演奏藝術センター長を拝命し、音楽学部の活動を活発化させることにも尽力しました。澄川喜一学長、歌田真介大学美術館長、大沼映夫美術学部長、斎藤一郎音楽学部長、事務局長、両学部事務長に支えられたことは何より嬉しいことでした。藝大フィルにより、Hindemith; Cocerto music for Strings & Brass/ Concerto for Violin, E.Rautobara; The Angel of Light Symphony, P. Vasks; Concerto for Cor Angle. 三木稔;Z協奏曲~for marimba & perc.オペラ<あだ>原典版、石桁真礼生;交響的黙示~soprano & orche. 武満徹;From me flows what you call time~5 per & orche. 浦田健次郎;新奏楽堂式典曲、尾高淳忠;オルガン協奏曲(新奏楽堂オルガンのため)~天皇、皇后ご臨席。野田輝之;美術館開館音楽、新奏楽堂祝賀音楽、南弘明;映像と電子音楽、吉松隆;サイバーバード協奏曲~saxphone & orche, M.Ravel; Bolero~指揮なし(有賀side drum). 実相寺昭制作;Drumming on Parade/African drummers, 猪俣猛とVibraphone, Marimba, Birds, 前田憲男;timpani blues, 遠藤雅夫;Music for 15 marimbas /Director Aruga. 音楽の地平線;Lou Harrison/ Concerto for Violin & percusion Orche. Shostakovich; Jazz Suite. 最後の演奏会;H.Berlioz; 幻想交響曲~語り、照明を入れることで状況が鮮明に/ 作曲者 music for cello & timpani / C.Vine ; comcerto for 4 percussions& orche/ M. Ravel; Bolero 指揮なし、立奏、舞台上手奥、下手奥、オルガンバルコニー3人の計5人での小太鼓奏者を配備。有賀小太鼓が舞台上を移動する。最後は演奏者総立ち! 大団円で終演しました。協奏曲のみWurff氏(Freiburg school of music)指揮。優れた学生諸君、先生方、事務方に支えられ無事29年勤め上げることができました。
西:最後に今、打楽器を演奏している方々に向けてのメッセージをお願いします。
有:私は全てが反重力によって生きていると思っています。生きるという事は反重力です!!
立つ事も、泣く事も、全て反重力です。音楽を演奏するには親重力と反重力が必要でやはり立って演奏する事はとてもエネルギーが必要なので。何事にも前に向かって、全方向(全音符1)に向かって反重力でエネルギッシュに活動して頂きたい。急ぐことはない!
●インタビューを終えて
有賀先生にお話を伺いに行ってエピソードが沢山ありすぎて、とてもとても書き切れないので、この続きはまた改めて、YouTubeもしくはJPC MAG上にて引き続きお伝えしていこうと計画しています。その際には改めてHP等でお知らせする予定です。
また下記オフィシャルサイトと公式YouTubeチャンネルもございますので、是非1 度ご覧ください。動画が気に入りましたら高評価ならびにイイネ!もお願いします。