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THE INTERVIEW 安倍圭子|KEIKO ABE(令和4年度文化庁長官表彰記念特別インタビュー)
安倍圭子先生が令和4年度文化庁長官表彰の受賞をされました。この受賞を記念し、受賞された喜びの声を伺うと共に、改めて「マリンバ」への想いを伺いました。今回は対面でお話をお伺いする事は叶いませんでしたが、その分とても想い溢れるお言葉を頂戴できました。この取材に対し、ヤマハミュージックジャパン様、ジーベック音楽出版様には多大なご協力を賜りました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
それでは安倍圭子先生の想いをご堪能下さい。
取材協力:(株)ヤマハミュージックジャパン、ジーベック音楽出版
取材:コマキ楽器山田俊幸
令和4年度文化庁長官表彰の受賞誠におめでとうございます。まず、受賞にあたり率直なお気持ちをお聞かせください。
マリンバという文字が活字となって表に出たことが何よりも嬉しかったです。
受賞の際に文化庁によって公表された功績概要
「永年にわたり、マリンバ演奏家として、新たな奏法を開拓し、音楽表現の幅を広げ、我が国の芸術文化の振興に多大な貢献をしている。」
私の体験をお話しすれば、その気持ちを分かっていただけると思います。1968年、マリンバの「オリジナル作品を求めて」のタイトルで文化庁の芸術祭に参加しようと申請に行ったところ、窓口で「マリンバは芸術を表現する楽器として認められていないので参加は無理」と断られました。三善晃、三木稔、湯山昭、平吉毅州、田中利光、野田暉行、という日本を代表する作曲家に委嘱していることや、マリンバのオリジナル作品だけのリサイタルは世界で最初なのだから、と熱心に説明し、やっとマリンバでの芸術祭参加が可能になりました。この「オリジナル作品を求めて」という公演シリーズはその後も続け、末吉保雄、石井眞木、ほか、多くの作曲家による名曲が生まれ、いまや世界中でマリンバのレパートリーとして演奏されています。
こんな経緯がありましたから、人生の終わりに文化庁長官表彰をいただいたことは、次世代へのお土産になったかな、と感じています。そして、マリンバはいつも打楽器の分類に入れられますが、私は、よりピアノに近い独立した独奏楽器として感じており、そのように認識してもらえるための活動を行ってまいりました。ひとくくりの打楽器としてではなく、「マリンバ」という言葉がはっきりと受賞文に掲示されたことは、なにより嬉しかったです。
数多くご活躍された現場があるこれまでの活動の中で、特に印象に残っている事をお聞かせください。
多くの芸術家たちとの共演で、音楽の中で共に生きてこられた幸せは数えきれません。そのなかでも、ユニークな出来事の思い出をお話します。1960年~80年代の日本は、高度経済成長期とあいまって、芸術文化に対しても貪欲な求心力と、それを発展させて根づかせようとするエネルギーが社会全体に満ち溢れていました。メシアンが初来日し、トゥーランガリラ交響曲の日本初演をした際には、私はNHK交響楽団のエキストラとしてビブラフォンで演奏に参加しましたし、ブーレーズが来日した際の「マルトー・サン・メートル」の日本初演は、渋谷にあった喫茶店で彼の指揮によって行われ、私もその演奏に参加していました。当時はこのような日常があったのです。
1981年にカーネギー大ホールでのラウダ・コンチェルタータをコミッショーナ指揮でアメリカン・シンフォニー・オーケストラと共演したあと、楽屋にホールの支配人がいらっしゃって「こんなにホールが揺れたのは3年前のホロヴィッツ以来です。貴女はここにまた帰ってきますよ!」と仰ったことも忘れ得ない思い出です。1984年、オランダのコンセルトヘボウで、マリンバ・スピリチュアルをアムステルダム打楽器合奏団と世界初演した時、ソリストはステージの高い階段の上から降りていかねばならず、転ばないように神経を使ったこと、終わってからの聴衆のただならぬ熱狂ぶりは、今でも私の目に焼きついています。
1987 年には、スカンディナビア音楽祭が東京で開催されました。そのために、スウェーデン国立打楽器合奏団「クロマータ」と話し合って、三善晃先生に「輪彩」を委嘱し、演奏しました。そのフェスティバルにはスウェーデン国王もいらっしゃり、お話をさせていただけました。その時、私は日本が文化国家の仲間入りを果たせたように感じて嬉しかったです。
近年では、2016 年、ロシアのサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場でのコンサートのことが印象深いです。スイスのローザンヌで行われていた私のアカデミー「KALIMA」(Keiko Abe Lausanne International Marimba Academy) の主催メンバーとマリインスキーホール・オーケストラの打楽器奏者たちとの共演で、私の作品のみによるコンサートが行われました。聴衆は誰一人として私の作品を聴いたことがなかったはずです。それなのに、聴衆の、作品と演奏に対する熱い集中力がスタンディングオベーションになって示された時には、私自身は信じられない思いでその様子を見ました。
これは多くの思い出のほんの一端ですが、このように、マリンバ音楽普及の種蒔きのた
めの私の旅は、素晴らしい出会いと幸せをたくさん生み出してくれました。
マリンバの発展に尽力されてきました、未来の「マリンバ」はいったいどんな楽器に進化しているでしょうか?
未来のマリンバは、楽器としての形態はそんなに大きく変わらないと思います。音楽と一体化してマリンバの前に立つ演奏家の姿は美しいと思うからです。
音楽の内容は、現在の路線の拡大に加え、もっと芸術分野における触発を受けて広がりと深まりをもって発展するように思います。ある時期、AIや宇宙の交信で革命が起きるかもしれないと思うと楽しいではありませんか?マリンバは未来に向かってそんな想像ができる、可能性を秘めた楽器だと思っています。
ただ、その根底にある、音楽の本質は、たとえ形態が変わったとしても、人間が存在しはじめた太古の昔から変わっていません。
人に恋し、人を愛し、別れを悲しみ、欲望や妬みに苦しみ、その時々の心情を音楽に託して自在に表現し、昇華させることによって、人々と安らぎや感動を共有することができます。そんな音楽があるからこそ、人間としての存在を豊かにすることができるのです。演奏家として、音楽のこのような本質を表現することのできるマリンビストが誕生することを願っています。
安倍圭子シグネチャーマレット は、日本国内はもちろん、アジアや世界各国で絶大な人気を誇るマレットになりました。
今では、数多くのマレットが開発され販売されていますが、当時はまだ今のような情報もない中でどのようなご苦労があってこのマレットが完成されたのかお聞かせください。
私はマレットマニアであり、マレットフリークです。世界中を旅して、自分がその時々に感じている音楽のフレーズにはこのマレットがピッタリだと思うと、メーカーに関係なく買ってしまいます。
私のシグネチャーマレットは、私の音楽に対する要求を実現させるために生まれました。ヤマハ(株)の開発者であった故・鈴木重雄さんとスタッフで作り上げたヤマハマレットをベースに、私の音楽的要求を満たすように幅を拡げて作ったものです。
たとえば、マリンバの低音1オクターブを硬いマレットで強打すると、倍音が強調されて基音のピッチを認識できません。ですから、重量のある柔らかいマレットが必要なのです。毛糸を巻く量・巻き方など、シグネチャーモデル作成時には、ヤマハの開発部門の方と話し合いを重ねました。また、低音から高音へのバランスをとることにより、メロディーがよく響き、中低音は豊かな和音を創り、バスはコントラバスのように上声部を支えるのです。
マレットは演奏者の感性の色を創ります。ピアニストにとっての、音楽を伝えるために大切な指のようなものなのです。私は、マレットに対して敏感すぎるかもしれませんが、音楽性の伴わない打撃音による演奏に出会うと、もっと自分の心と音楽に忠実にあってほしい、そしてそのためのマレット選びをしてほしい、と思う時があります。
私のシグネチャーモデルは、低音から高音まで10 段階の種類がありますが、それでも、さらにその間の音色の表現力が欲しくなる時があります。そんな時は、同じ品番でも製造時期によってほんの僅かに音色の異なるマレット(季節によって許される範囲で中心のゴムの硬さが微妙に違ってくるのです)をメロデイーラインに使ったり、中声部に使ったりして、表現の変化を楽しんでいます。
新しい曲が生まれると共にマレットへの欲求も高まってきた事と思います。
マレットの選択肢を広げるために製作サイドとどんなやり取りがあったのか?お聞かせください。
1968 年のリサイタルで、三木稔さんに「マリンバの時」を委嘱した時、「瞬時にフォルテが出せて、瞬時に透明感のあるピアニッシモの出せるマレットはないのか?」と訊かれました。従来のマレットはトレモロをするとマリンバ特有の民族楽器的な世界が表現として出てしまい、現代作品で表現したい厳しさや繊細な透明感、凝縮されたエネルギーを伴った間を表現するために必要なフォルテを出せないとおっしゃるのです。だから、自分はマリンバのトレモロが嫌いなのだともおっしゃいました。私も、その音楽的要求にはまったく同感でしたし、マリンバで、そのような表現をしてみたい、との想いを強く持っていました。そこで、創作打楽器を作っておられた日本フィルの故・佐藤英彦さんのところへ相談に行き、一週間通い詰めて議論を重ねました。中心のゴム球の硬さを半分ずつ変えてみたり、シャフト( 柄)を四角い棒にしてみたり、その他いろいろな検討を重ねましたが、実用的ではなかったため、佐藤さんと「ツートーン(2tone)」と名付けたマレットを作りました。私のシグネチャーシリーズの1番(MKA-01)は、この時のツートーンマレットと同じ音色を出せるように作ってあります。それ以降、ツートーンはさまざまな作曲家たちの作品で用いられるようになり、いまやマリンバでの音楽表現に欠かせないマレットとなりましたが、1968 年の初使用時にはマリンビストの間では悪評が立ったことでした。
時代とともに作曲家の要求も変わり、社会状況も変化し、マレットは、作品によって特殊なものが生まれてくるのではないかと思っています。
ヤマハ「マリンバ」への想いをお聞かせください。
私は、文化庁芸術祭で賞をいただいたあと、外国の楽器メーカーから「世界三大マレットアーティスト(ゲイリー・バートン、ライオネル・ハンプトン、ケイコ・アベ)」と評され、契約を結んでいました。
私はそのメーカーのマリンバを愛していましたし、世界最高の楽器だと思っていましたので、その楽器で演奏することは幸せでした。契約内容は、プログラムに使用楽器名を書くこと、その代わりにメーカーはアーティストを世界中にプロモートする、というものでした。
ところが、契約1 年後、東フィルの定期公演で三木稔さんのマリンバコンチェルトを東京文化会館で演奏した時のことです。三木さんから、弱音は大ホールの後ろまで届かないし、フォルテになると楽音ではなく、板の音がするから、楽器としてはまだ開発途上にあるのではないか、と言われました。私はとてもショックを受け、その場ですぐにヤマハの故・川上源一社長に電話をして、コンサート用マリンバの開発をお願いしてしまったのです。川上社長は、すぐに技術者の故・鈴木重雄さんをつけてくださり、それから40 年掛かってYM-6000が完成したのです。
十倍音の上の三度を少し下げると、一般的な、いわゆるマリンバ的な音色になるのですが、私は、あくまでピッチの正しさをもった、そして楽器自体はピアノのように無色透明な楽器にしたかったので、それまでのマリンバとは違う、ヤマハ独自のマリンバとなるようにお願いしました。音板の幅と長さのバランスによって、強打をしても楽音が出せるように工夫を重ねた結果、ピアニッシモでも遠鳴りし、フォルテではオーケストラの全合奏(Tutti)の響きを超えてエネルギーをもった楽音を客席の聴衆に届けられるようになりました。
最初から5オクターブの楽器を作ることは難しかったので、従来の4オクターブに5度低音のエクステンションを試み、まず4.5オクターブの楽器を完成させました。そして、それから低音のC16までの5オクターブの楽器開発へと移りました。ヤマハが5オクターブの楽器を完成させると、世界の各メーカーも半年後には5オクターブ・マリンバを製造するようになりました。ヤマハが5オクターブ・マリンバを完成させたころ、アメリカのマリンバ奏者、ナンシー・ゼルツマンから、マリンバの決定的な音域について、質問の手紙をいただきました。私は、その質問に対し、「高音部のこれ以上の音域は木琴でカバーできるし、低音部のこれ以下の音域は、音程を認識することが難しく、マレットのさらなる重量が必要となることもあり、現実的ではありません。ですから、5オクターブの音域が将来のコンサートマリンバとして定着します。」と答えました。
傘寿記念コンサートの際にプログラムに掲載した安倍先生とヤマハマリンバの開発に関する歴史をまとめた資料
※画像をクリックするとPDFファイルが開きます
完成された5オクターブ・マリンバYM-6000のヨーロッパデビューは1984年にオランダのコンセルトヘボウで、アメリカデビューは同年、ミシガンで開催されたPASのコンベンション・コンサートで行われました。
私は、この最高の楽器を日本から世界へ送り出したかったし、そういう楽器で演奏したかったから、海外メーカーによって世界中にプロモートされるという契約上の恩恵を失いました。でもそのかわり、自分の心のうちをマリンバで自由自在に、そして的確に表現できるという幸せを得たのです。音楽家としてこれ以上の喜びはありません。
中学校1年生で初めて聴いたマリンバの音色に心を奪われ、虜になった当時のマリンバはどんな感じだったのでしょうか?それから年月を重ねて今の「容姿」になった楽器マリンバはどのような姿として写っていますでしょうか?
小学生の時、浜館菊雄先生指導の「ミドリ楽団」(現在の学校音楽教育における合奏の礎となったが楽団です)で、卓上木琴を受け持ちました。その後、朝吹英一先生のもとでレッスンを受けていた時の楽器が、朝吹先生が演奏していらしたディーガン社のコンサートグランドザイロフォンでした。
木琴の音色に慣れ親しんでいた私にとって、中学生の時に出会ったラクーア伝道団が日本に持ち込んだマリンバによる讃美歌の音色は、まるで天国で天使たちがオルガン伴奏で歌を歌っているように聴こえました。それ以降、私は、マリンバによる深く、癒される音色に魂を奪われ、この楽器で心を語っています。
ただ、その当時から、他の楽器の演奏家たちは、その楽器のために書かれた作品でコンサートをしているのに、木琴はなぜ他の楽器のために書かれた楽曲によるプログラムばかりなのだろう、と子供ながらに感じていました。音楽を勉強するのだから、他の楽器のための曲から音楽を学ぶことも良いのではないか、と二十年間ぐらいは、いわゆる「編曲もの」を真剣に学び、いろいろな試みを通して音楽を幅広く楽しみました。ただ、ピアノやヴァイオリンや、他の楽器と同じように、オリジナル作品で演奏家としての勝負をし、それを世に問いたい、と作曲家たちに委嘱を始めてから、私の人生は、マリンバ音楽の種蒔きの旅へと変わりました。
1977年、アメリカでの最初のコンサートでは、マリンビストという表現がまだありませんでした。現在は、みんな当たり前のように「マリンビスト」というようになり、オリジナル作品も奏者も多くなりました。作品は時間をかけて淘汰され、何曲かが後世に残るでしょう。演奏は一瞬の芸術です。でも、演奏家が命をかけたその一瞬に触発されて人生が変わる人もいるかもしれません。マリンバでそんなカリスマ性のある芸術家が生まれてくるかもしれない、と想像することはとても楽しいことです。
「第一回安倍圭子国際マリンバオンラインコンクール」このコンクールへの想いをJPC 会員の皆さんへお聞かせください。
今年から、私の作品のみによるマリンバコンクールがスタートします。門戸を拡げるために、オンラインでの開催からのスタートです。ドイツのマリンバ・フェスティーヴァが主催となってこの企画が動き始めたとき、私は自分自身に疑問を感じて恐ろしくなりました。なぜなら、私の能力は、過去の偉大な作曲家たちと比べて、あまりにも小さく、まるで浜辺の砂の一粒のように思えたからです。それでも、将来のマリンバの存在と発展、そして次世代のマリンバ奏者育成のことを思い、背中を押し、勇気づけてくれた方々、そして支援してくださった方々のおかげで、コンクール開催を決心しました。音楽界のなかでは点のように小さな存在のマリンバにとってはよいことなのかもしれない、と今は思えるようになりました。
このコンクールには、お互いに競い合ってキャリアを認識させるためだけではなく、作品にふれて、ゆったりと時間をかけてマリンバに向き合い、自分自身の心を語り、音楽の本質を表現することを楽しんでいただきたい、という私の願いがあります。今日の気分は楽しいから選曲はこんなふうにしてみよう、と各自で自由にプログラムを組み、日常のなかで、自分にあった効果的なプログラムを考える経験にもなれば、とも願っています。
オンラインでの開催には、私自身抵抗がないわけではありませんが、録音環境の良し悪しがあったとしても、音楽性の判断は充分にできます。オンラインの利点は、世界中のどこにいても、どんな環境にあっても、誰でもが気軽に参加できることです。新たな才能の発掘につながる可能性も秘めており、ひとりでも多くの皆さんの演奏を聴かせていただけることを心から楽しみにしています。
私が現在までマリンバ一筋の人生を歩んでこられたのは、私のマリンバに対する理念を理解し、支援してくださった方々が支えてくださったからです。国内外の友人たち、音楽をわかちあった同志たち、そして何よりも、家族の協力なくしては成りたたない人生でした。
音楽界におけるマリンバの存在と評価をさらに拡げることを、次世代の音楽家たちにお願いしたいと思っています。マリンバの明るい未来を期待しています。
第1 回安倍圭子国際マリンバ・オンライン・コンクール
この新しく創設されたユニークなコンクールは、マリンバの音楽を世界に広めることに生涯をかけて専念され続けてきた安倍圭子氏の功績を称え、マリンバ演奏への芸術性を深めることを目的としています。 コンクールを通して、参加者は安倍圭子氏の作品を演奏し、審査員は演奏者の技術的なスキルだけでなく、演奏者の音楽性、表現、作品の解釈と理解度に焦点をあてます。そして、マリンバで心を語り、音楽の感動をマリンバで表現することのできる次世代のマリンバ奏者の発掘と育成を目指すものです。
本コンクールはすべてオンラインで開催されるため、世界各地の奏者がそれぞれの環境で最善の演奏を追求できるものとなっております。※ コンクール主催者であるmarimba festiva e.V. ホームページから引用いたしました。
第一回安倍圭子国際マリンバオンラインコンクールに関する詳しい情報は、marimbafestiva e.V. ホームページでご確認願います。