tucchie's Taiko Strange Story
つっちーの「太鼓奇談」第二十五回|自分のルーツにある大きな存在

※この記事は2019年10月発行「JPC 162号」に掲載されたものです。
JPC 会報をお読みの皆様、毎度おなじみ太鼓奇談のお時間がやって参りました。
この開放、いや、会報が世に出るのは10月10日です。
令和最初の「ドラムの日」ということになりますね。
「10月10日がなんでドラムの日?」と思われた方は、ご自分で調べてみてください。(優しくないw)
と、言うわけで、今年も暴力的な暑さの夏でした。そんな夏も終わり、10月です。秋の風を感じ夜も過ごしやすく、少し肌寒さを感じ人肌恋しくなってみたりして。
秋といえば芸術、食欲、装いなど、人々の生活に芳醇な香りが漂う大好きな季節です。
この夏の終り初秋から晩秋、そして冬。
一年の中で一番好きな時期です。目眩がするほど暑かった夏を馬車馬のように働き、なんとか乗り越えてほっと一息つく九月。次なるツアーへの準備をし、リハーサルが始まる十月、そして全国へと旅立つ十一月と十二月。気がつけばもう今年も終わりの声が聞こえてきます。
五十の声を聞いたからと言うわけでは有りませんが、もう一年がめちゃくちゃ早く感じられます。目まぐるしく過ぎていく日々にあわあわと追い立てられるように過ごしていると、ふとした時に遠い昔のことを思い出してひととき、ぼ~っと物思いに耽っていることがよくあります。
先日、とあるレコーディング仕事で都内のとあるスタジオに行ったときのこと。
そのスタジオには常設楽器の中に、ティンパニがありました。ペダルの付いたラディックのものが二台。きれいなコパーのシェルがきちんと手入れされていることを物語っていました。ふとした空き時間に、ドラマーのスティックバッグからマレットを取り出し、そっとティンパニのヘッドをマレットで触れた時、なんとも懐かしいその響きにタイムスリップしたような感覚になりました。何を隠そう僕が一番最初に演奏した楽器はティンパニだったのですから。(二番目に触った楽器はシンセサイザーでしたw)今でもとても愛着のある楽器です。
ただ、個人で持つには大きすぎますし、僕が今メインで仕事をしているポップスやロックの世界ではそれほど出番が多くはないので、触れる機会もめったに有りません。
とはいえ一番初めに向き合った楽器ということで、なんというか古い親友に再会するような気分になるのです。
今の僕を形作っている楽器の一つがティンパニだということは紛れもない事実です。
ティンパニが僕に教えてくれたことはとても大事なことばかりでした。その多彩なダイナミクス。ピアニッシモからフォルテシモまで、時には馬のいななきのような、または雷鳴のようなロール、賢者の囁きのようなピアニッシモのタッチ。
チューニングのシビアさ、これは本当に鍛えられました。僕は音符が読めないのにティンパニやグロッケン、マリンバなどを演奏する機会に恵まれ、もう体で覚えるしかない状態でブラスバンド部の三年間を過ごしてきました。弱小で予算もなにもない埼玉県の中学校の吹奏楽部でしたからそこまで厳しくなかった、結構緩かったのが救いでした。が、外部顧問の先生は音楽に対してとても真剣で厳しく、ティンパニのチューニングが甘いと、「チューニングが甘い!」と怒鳴る前にそこら辺にあるものが飛んできました。大体は黒板消しか先生が履いていたサンダルでしたw
「土田、そこのボルトあと一ミリ締めろ!」「自分のティンパニと周りのハーモニーを聴け!」と、かなりスパルタでしたが、音楽愛のあるスパルタでしたので必死についていきました。なぜか楽譜を読めるようになれとは言われないまま…もちろん自分で楽譜を読めるように勉強はしましたが…今でも苦手ですw
そして何よりありがたいと思ったのは「音価」でした。
音の長さをコントロールする。「トーン」と出した音の切れ目が次の音符の頭で切れるのか、その前の裏拍で切れるのか…どちらか一方のマレットで音を出し、もう片方の手で優しく音を止める。ティンパニ奏者の方ならおわかりになると思いますが、ことロック・ドラムに夢中だった、13歳の僕には「ドラムの音の長さをコントロールする」という所作に少なからず衝撃を受けたものです。
何より嬉しかったのは、管楽器のみんなと同じようにブレスできるような気分になれたことです。
打楽器って叩いて音出すわけで、叩いたあとのことって、言い方悪いですが「放ったらかし」じゃないですか。
それが、音を出したあとも「音の消え方」をみんなと一緒にコントロール出来るんだ!って。
なんて贅沢な楽器なのだろうかと。
シンバルも同じように音価をコントロール出来る楽器ですが、ティンパニのほうがよりメロディックに演奏出来るので、とても楽しかった記憶があります。
ところが、僕の通っていた学校には手締めの古いパールのファイバーグラス製のティンパニが2つあるだけだったのです。それでも僕は嬉々として演奏していました。
「ラデツキー行進曲」のような曲だと中学生の吹奏楽部の定番でティンパニも2つで足りていました。本来のアレンジでは足りないのかもしれませんが、僕らが演奏していたアレンジでは2つで充分でした。とても盛り上がる有名曲ですね。グランカッサと言われる大太鼓、スネアドラム、シンバル、ティンパニを二人のパーカッション担当で代わる代わる演奏していたのが楽しい思い出です。
とある夏休み、僕は誰もいない学校に出向いて音楽準備室という楽器が置いてある部屋に行き、(ちゃんと先生の許可は取っていましたよw)カセットテープにブリティッシュ・ロックやらニュー・ウェイヴの曲をいっぱい入れて、爆音で鳴らしながら一緒にドラムをプレイしていました。
ローリング・ストーンズやビートルズ、クリームにキンクス、フェイセズ、ジャパンにYMO、トッド・ラングレン、ジェネシス、ませた中坊でしたね。そこへ吹奏楽部のみんなが練習にやってきて、コンクールの課題曲の練習を始めます。
吹奏楽のコンクールといえば普門館が有名ですが、惜しくも老朽化で閉館してしまいました。
僕らの部活はそんなハイレベルなところではなかったので、練習もどこかのんびりとした雰囲気でした。が…
その年の課題曲、僕の担当はスネアとティンパニとグランカッサ、シンバル…
全部やないかい!と唖然としました。しかもティンパニは三つ必要…って…愕然としました。ペダル式ならあっという間にチューニングを変えることができますが、目の前にあるのは手締め式。
やるしかない…と腹をくくり、曲の構成を叩き込み、楽器の振り分けを考えます。もうひとりのパーカッション担当は三年生でもう引退です。僕がひとりでなんとかしなければならなかったのです。
アゴが床までつくほど落ちきった僕に、顧問の先生は、「全部別の楽器だと思わずにドラムセットをプレイするような感覚でやるといいんじゃないか?お手本は大事だけど、マネだけじゃいいプレイヤーにはなれないぞ。」
なんとも心強い言葉をいただきました。
なにせ、その顧問の先生は当時はやっていたクロスオーバー・フュージョンが大好きで、ドラマーならポンタさんやガッド、ポーカロと言ったレジェンドを僕に教えてくれた人でもあったのです。
だれでも若い頃って、自分の好きなもの一辺倒になるのが当たり前だと思うし、それが若さゆえのエネルギーでもあるのですが、あの先生のおかげで雑食の音楽好きになれたことは今でも感謝しております。
で、その課題曲です。
ティンパニを曲中でチューニングし直すという荒業をどこでやるか、どっちのティンパニをどの音にするのが早いのか、まさか演奏中に調子笛を吹くわけにも行かず、僕は全体練習でジッと考えながら他のパートを聴いていました。曲の中でのパーカッションはそれほど忙しいわけではなく、スネアとグランカッサとシンバルがかぶるくらいで、各楽器のフォーメーションが決まれば、後はそれを練習すればクリアできました。問題のティンパニのチューニングは、自分が演奏する何小節も前にそのピッチを吹いていた、ユーフォニアムのたった二拍程度の音をキャッチして、その音を頼りにティンパニをチューニングするという荒業を思いついてしまい、今考えると中学生の頃から今に至るまで、やっていることがまるで変わっていないという事実にちょっと笑っちゃいそうになります。
でも、当時の土田少年はそんな40年も先のことなどつゆ知らず、必死こいてユーフォニアムの二拍を逃さないことだけに集中していました。
いよいよ本番、川越市民会館だったかと思います。夏の暑い日に楽器を搬入して、ステージ裏でティンパニのチューニング、(これまた今でも変わらない作業です)をしながら、他の部員たちのパート練習を聴いて、「その音」を体に叩き込んでいました。あ、曲名思い出した「アイヌの輪舞」だったと思います。
他校の演奏を聴きながら、「あぁ、あの学校はティンパニが3つもある…しかもペダルも付いている…いいなぁ…」とボーッと聴いていました。
自分たちの番になって、楽器をステージに上げ、準備が整い、学校名が読み上げられ、いよいよ演奏です。
結果は銀賞を頂きました。本選の前の前の前くらいの地区大会みたいなところだったと思うのですが、部員一同、初めての受賞で狂喜乱舞したのを覚えています。
そして、清々しい気持ちで楽器の後片付けをしていると、審査員の先生が一人僕に近づいてきて、「いや~君はよく頑張ったね。ひとりで三人分の楽器を演奏して、おまけに曲中手締め式のティンパニのチューニングを変えるなんて、大したものです。君はきっといい音感をもっているのでしょうね。その才能を大事にしてください。頑張ってね。」
人生で見ず知らずの大人に褒められた初めての出来事でした。
この出来事は僕の中にその後もずっと残り、今でも僕のベーシックな部分に横たわっています。
チューニングに悩んだり迷ったりした時、あの蒸し暑い部室でずっとティンパニの練習をしていた時間を思い出します。何もアカデミックな訓練を受けず、先輩と顧問の先生に言われるまま、ルーディメンツやシンコペーション等といった教則本を闇雲にやり、スティックのグリップもでたらめだし、シングル・ストロークでのフォームチェックも知らないし、今のようにYOUTUBEも何もなかった時代、ドラムマガジンを読んだり、ここ浅草のドラムシティでのセミナーに顔だしたりして、いろんなテクニックを学んでいきました。(帰りのバス停ではもちろん花屋の焼きそばでしたね)
音楽専門学校で学びたいと思い、いろんな学校のパンフレットを取り寄せてはみたのですが、その学費の高さにビビりまくって、進学の道は簡単に諦めましたw
何百万も払うならその分レコード買ったほうが楽しいと思ったのです。その選択は僕にとって正解でした。
世界中のありとあらゆる音楽が無限に広がる中のほんのひとさじ、耳かき程度の音楽しか知りえませんが、芳醇なその世界の入り口を教えてくれた、周りの大人達に感謝しています。
…なんてことを夏フェスのスタンバイでバカでかい倉庫に山積みになったギターアンプやハモンド・オルガンのケースの裏に隠れてサボって居眠りしながら考えていたりするわけですよw
一体全体なんのことを書いているのかわからなくなっていますが、僕の頭の中なんてこんなもんです。
大体はお腹すいたとか、眠いとか、待ちゆく女のコを見て、かわいいなあとか、たまたま耳に入ってきた音楽に反応して、ネットで検索してみたり…。
最近ハマっているのが「昼寝」でして、それも自宅の和室で畳の上に枕持ってきて、ごろんと寝っ転がる。真っ昼間から。これがなんとも気持ちよくて、もちろんテレビもつけず、音楽も流さず。無音の中、近所を通る車の音やたまに聴こえる隣の家のピアノの音、犬のなく声、蝉の声、向かいの学習塾に集まる子どもたちの声、生活音に身を任せて我が家の年季の入った(僕と同い年の部屋築50年!)天井を眺めながらいつの間にか深い眠りに落ちている…この上ない幸せです。まるで世の中の酷い出来事が別世界のようで。
目を覚まして一度現実に目を向ければ、一瞬で気落ちするような現実ばかりです。
ほんのひとときの現実逃避、我が家は僕にとってのサンクチュアリですね。
きっと皆様にもそんな場所があるかと思います。
そういった時間や場所を大事にして、人生のひとときを楽しみましょう。そうすれば思いやりも思慮深さも自然と身につくような気がします。
排他的な風潮が蔓延し、他人に対してマウントポジションを取ることが正義かのような世の中ですが、それでは何も生まないと僕は思っています。思いやりと認め合う寛容さが大事だと思うのです。人と人、国と国、規模は違えど同じことと感じます。隣同士の国で政治家のけしかけた喧嘩で、一般の市民たちが仲違いする事は愚の骨頂です。
その地に行けばいい人もいる悪い人もいるということはどこの国も一緒です。
こんなときだからこそ文化交流をと思います。
さて、そろそろ紙面が尽きてまいりました。
皆様の毎日が心穏やかな日々でありますように。
いつもお付き合いありがとうございます。
それではまた。ごきげんよう。
■つちだ“つっちー”よしのり プロフィール
1969 年生まれ。11 歳の頃YMO の高橋幸宏に衝撃を受けドラムを始める。現在はフリーのドラムテック&ローディーとして矢沢永吉、高橋幸宏(METAFIVE,YMO)、松本隆(はっぴぃえんど)、林立夫(Tin Pan)、細野晴臣、[Alexandros]、Diggy-MO'、LITE、
星野源、ピエール中野、RADWIMPSなどのツアーやレコーディング、FUJIROCK FESTIVAL やSUMMER SONIC などの、夏フェスでのステージクルーとしてウロウロしている。
自身のバンド254soulfoodでは定期的にLIVEを行っている。
プレイヤーとしての参加作品はHARRY「BOTTLE UP AND GO」本園太郎「R135 DRAFT」「torch」など。
蕎麦と落語と読書に酒、煙草好きの堅太り。
執筆者:土田 ”つっちー” 嘉範
編集:JPC MAG編集部