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THE INTERVIEW 平尾信幸、清水由喜男|Nobuyuki Hirao、Yukio Shimizu(神奈川フィルハーモニー管弦楽団)
2024年立秋、神奈川フィルハーモニー管弦楽団2名の打楽器奏者が新たなスタートラインに立つ。
新たな節目を前に、今だから聞けるエピソードを取材させていただきました。
平尾信幸
1982年9月入団 2024年7月退団
東京藝術大学を卒業。 1987年より1年間、韓国コリアンシンフォニーオーケストラより首席打楽器奏者として招聘される。1989年には第一回ルクセンブルク国際打楽器コンクールの四重奏部門に打楽器四重奏団『SHUN-KA-SHU-TOH』のメンバーとして参加し、2位に入賞した。
現在、神奈川フィルハーモニー管弦楽団打楽器奏者として活躍するとともに、室内楽、吹奏楽、ソロなどの演奏活動の他、 吹奏楽、マーチングバンドの指導、審査員などジャンルを超えて幅広く活動している。
清水由喜男
1985年11月入団 2024年8月退団
洗足学園音楽大学、ベルリン国立芸術大学卒業。
白石元一郎、岡田知之、ディーター・スメスニー、クラウス・キースナー各氏に師事。
神奈川フィルハーモニー管弦楽団ティンパニ・打楽器奏者。
「パーカッション・アンサンブル・パラディアム」「コンセルターレ・トリオ」主宰
今回お話を伺えた時間は、お二人が歩まれてきた時とくらべてしまえばほんの一瞬にしか過ぎない。
その一瞬一瞬に発せられた言葉には「想い」「意志」「職人魂のような愛」がありました。
とても語りつくせぬその内には、長年積み上げてきた音楽があったからこそ、シンプルな表現になったのだろうと思う。
そこには、これからも続いていく打楽器奏者としての情熱が燃えあがっていた。
取材協力:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
撮影:株式会社ダルク d’Arc 有村 蓮/REN ARIMURA
取材:コマキ楽器 山田俊幸 取材日6月吉日
◇ ◇ ◇
オーケストラ生活、一つの区切りの時を間もなく迎えようとしていますが、今の心境はいかがでしょうか?
平尾:大学を卒業した年の9月に神奈フィルに入団しました。
それまで任意団体であったオケが財団化した事で、一定の団員を採用するタイミングがあって、他にオーデションも無い事だし「ここしかない!」と思い飛び込みました。
それからずっとこの生活だったので「あっというまだった」というのが正直なところです。
清水:この区切りについて、実はあんまり考えていなかったもので、、、終わってからゆっくり考えます!
無いんですよ 区切り感が。
実感がね、まだ無いんですよね。。。
神奈川フィルの思い出話をお聞かせください
平尾:入団当初の話になるんだけど、普通にオーケストラプレイヤーだと思っていたら、舞台設定や楽譜配布等なにからなにまで楽団員がやっていました。初代ステマネみたいな感じ(笑)。トラックを運転して楽器運搬、会場のセッティング、譜面台を並べる事まで。。。楽団ができたてという事もあったのだろうと思ったけど「聞いてないよ!」って感じだった。若かったから出来たなー。
清水:私もトラックの助手席には何度も乗ってましたね。
1番の思い出というと難しいのですが、沢山の先輩から𠮟咤激励を頂いたことを思い出します。
音楽の事はもちろん、野球部での活動(当時は野球部があったんです)、組合活動など多岐にわたります。
打楽器パートでは、卒団された永曽さん、重田さん、藤本さん、平尾さんには沢山勉強させていただきました。入団してから勉強した感じです!
平尾:そうそう!やる曲やる曲が初めてだったもんなー。
楽器だって持っていないから、持っている人から借りたりしたね。
清水:個人の楽器もお借りして、音教やりましたね。
平尾:当時神奈フィルは「アルプスオケ」って揶揄されていたの。
ギャラが安かったって、、、♪いちまんじゃく。(笑)
とにかく生まれたてのオケだから、技術的な事もまだまだ未熟だし、楽器を保管する場所すらないし毎日が大変だった。ここができるまで(かながわアートホール)は固定された練習場がなくて、毎日ちがう場所でね。。。。。もうできないなー。
清水:アートホールの前に、桜木町にも練習場所があって、そこは元ボーリング場の跡地で、カーペットを敷いた床は斜めになっているし、天井も低くて環境は良いとは言えませんでした。
平尾:そんなジプシー生活なんだけど、いろんなホールや公民館に行く中でどこか忘れてしまったけど、楽器搬入の時、港で荷揚げする時に使うような網で楽器を入れたのは衝撃だったなー。網の中にティンパニがあって吊り上げられているんだから(笑)
今の当たり前は有難いですね。
あらためて振り返ると神奈川フィルはどんなオーケストラでしたか?
平尾:ある意味「のんびりしている」のかな(笑)。うちのオーケストラは仕事の稼働率から言ったら、そんなに多い方ではないと思うのね、もちろん今も忙しい中で活動しているのだけど、過激なスケジュールで、気合で乗り越えるぞ!って時にカドが無いと言うか、疲弊するようなピリピリ感、キリキリ感はないと思っています。少しね!少しだけ(笑)
清水:昔は大変だったのですが、現在の神奈川フィルは個々の技術の高さはもちろんの事、幅広いジャンルの音楽が対応できるオーケストラの一つだと思っています。ただですね、未だに海外公演が一度も無いのです。これに関しては今後、是非クリアして頂いて箔を付けもらいたいなという想いがあります。
それと、さっきの「のんびりしている」って話に戻りますが、、、
ここに(アートホール)移った時、横に公園あるじゃないですか!当時野球部があって、リハーサル終わりにキャッチボールをやっていたんです。そうしたら、当時音楽監督の外山雄三先生が帰られる時に見られてしまい「ここは、のんびりしてんなぁ」と、ボソッと一言いわれ、翌日からキャッチボール禁止になったという事はありました。
古き良き時代のエピソードですね。
平尾:花火もやったしな(笑)
忘れられない公演、印象に残っている曲目があれば教えて下さい。
平尾:神奈川フィルの大切な仕事の中に、文化庁の派遣事業があり全国を回ります。その中で西表島に派遣された事がありました。まず本体のオーケストラが来る前に、僕は先発隊としてワークショップを行い指導していきます。校歌やその児童たちが作った合唱曲を大橋晃一(神奈川フィル音楽参与)がアレンジをして練習していくんですね。いざ本番!西表島にフルオーケストラで派遣された初めての楽団という事も相成って、とても気に入っていただけて!感動してもらい、校長先生も涙しながら聴いてもらったり、子供たちも涙して喜んでもらったり、演奏した我々も感動して感極まった公演でした。素敵なクラシックも沢山演奏して来ましたが、この時一緒に演奏した校歌や合唱曲は、最も印象に残っている仕事だったな!
この派遣事業では、良い歌が沢山あり!良い思い出がいっぱい!毎回毎回感動しています。
清水:私も一緒で、西表島で演奏した事です。初めてオーケストラを聴いてすでに感動してもらっていた中、最後に校歌を演奏して一緒に歌っていると、生徒の中から泣く嗚咽の声が聞こえ始めて…そうしたら先生がつられて涙をして…ついにはオケのメンバーからも涙が、、、演奏できないメンバーもいたりと、それはそれは感動的なコンサートでした!
本番後、私たちが乗った帰りのバスを、
素晴らしいコンサートができた事!これは忘れられないです!
その帰京後、しばらくはみんなこの話題で持ちきりだし、沖縄愛が深まり、果てしなく沖縄にやられてきました。
すごい!同じでした。
平尾:どんなに小さな公演でも絶対に手を抜かい伝統はそこで生まれたのかもしれない!こういった経験から、真剣に取り組む姿勢という事がどういうことなのか?を若い世代にも伝えていけているのも神奈川フィルの良いところかもしれない。
(続けて)
もう一つ印象的だったのは、2011年3月12日の定期公演、マーラーの6番。
本番やったんだよ!あの雰囲気はなんともいえない。お客様も半分くらい埋まったのね。
入団のきっかけや入団前に思い描いていたこと、実際に入団してみての感想をお願いします。
清水:私の場合これといって入団前に思い描いていた「神奈フィル」はなかったんです。エキストラで数回呼んでもらい半年くらいしてから、オーディションがあるからと声をかけてもらい、その後オーディションを受けて、無事に合格しました。
一番の感想!大変申し訳ありませんが「みんなよく酒飲むなぁ」という事です。当時桜木町の練習場近くに「野毛」っていう飲み屋街があって、リハーサル終わりに野毛!本番終わりに野毛!!っていう感じ、しかも皆さん当時は独身が多く結婚されている方はほとんどいなかったということもあり、ほぼ毎日でしたね。。。そんなにお酒が強くない私、そんな事許されない時代で、しょっちゅうお酒にのまれていました。立ち飲み屋からはしごして、気が付けば朝になり、また振り出しに戻る(笑)!。スタート時の一番の思い出です。
平尾:その当時、どのオーケストラもメンバーみんな若かったよね。
首席クラスの年齢が40代くらいだったかな、それから数十年間はオーディションがほとんど行われないんだから、オーケストラに入る事がまず大変な時代でした。あれもない、これもないお金もない中、仲間内で飲みにいっていろんな事を話したのは良い思い出です。
初期の頃は特にへたくそだったな(笑)、事務方も音楽を知らない方がおおくて、毎年人が変わるたびに一からやり直しみたいなこともあって、まぁとにかく飲んでました!
演奏をする上で大切にされてきた事、年を重ねていく中で大変だった事、注力した事があればお聞かせください
平尾:………毎回必死だったから(笑)。初めてで経験も無い技術も無いので、特に最初の頃はちゃんとできるかな?みたいな。でも、それを一つずつ積み重ねてきたことが今に生きてきていると思います。いまでも毎回積み重ねていく事を感じています。
清水:この歳になって思うのは、仕事(演奏)をしていく中で年齢はあまり関係が無いかもしれないと思います。例えば20代の子は60歳になってよくやっているね!と思うのかもしれませんが、音楽的な事に関しては、やる事ずっと変わっていないので、毎回必死です。タイコは演奏をする前に準備する事もおおいので、アタフタしないように準備を怠らない!ただでさえ余裕がないのでなおさらです。
むしろ、問題は体調管理のほうが大変ですね。
演奏上いろんな動きがあり身体を維持するのも大変だったと思いますが、、、
平尾:マッサージ、整骨院、接骨院、いっぱい、いろいろ、たくさん行ってる!!(笑)
(続けて)
オーケストラって、世代が全く違う人が同じ土壌で同じ次元の仕事をするんだから素敵だよね。普通の会社みたいに課長部長とか割り振りがないじゃない?お互いお互いをリスペクトしている姿は良い職場だと思う。その中で、自分が出来ていない事や新たに気づく事もあるのだから、そういった意味で常に気をつけてきたと思います。
今後の展望をお聞かせください。
平尾:65歳にして初のフリーランスになります!
仕事無かったらどうしよう(笑)と少しドキドキしながら、いろんな現場に対応できるように準備し頑張っていきたいと思っています。
清水:平尾さんとほとんど同じです(笑)
引き続きこの世界で音楽を続けていきたいので、精進していくしかないですね!
最後にJPCMAGをご覧の皆さんへ一言お願いします。
平尾:何においても選択肢が少なった世代からすると、昨今なにに置いても有り余るほどの情報があって、そこから選択していく事がかえって大変な時代だなと感じています。楽器を選ぶことも大変だと思いますが、いろいろと情報を集めて自分にあった楽器を自由に選択し享受して欲しいな!是非、JPCに行ってもらい、スタッフの皆さんに聞いてもらうのも良い事だし、機会があれば私にもご相談してください!
「仕事ください!」
清水:いろんな現場で必ず言う事なんですけど、「最初にJPC(コマキ楽器)へ行ってきなさい」
「あそこに行けば打楽器がもっと好きになるから!」いろんな年代の方に、まずは浅草へ行ってビル全体を堪能してきて欲しいってね。「この楽器どうやって演奏するんですか?」ってタダで教えてもらえたり、スティックやマレットを何時間もかけて選ぶ事ができるし、知らない事を知れるあんな有難いお店は他にないと思います。お店を長く続けてもらうためにも、皆さんお店に行ってもらい楽しんでもらえたらと思います。
執筆者: コマキ楽器 山田俊幸
取材協力:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
撮影:株式会社ダルク d’Arc 有村 蓮/REN ARIMURA
編集:JPC MAG編集部