つっちーの太鼓奇談
つっちーの「太鼓奇談」第二十八回|短編小説「あれから...」第1話
※この記事は2020年7月発行「JPC 165号」に掲載されたものです。
※カバー画像および、文中の挿絵は生成AIよって作成されたものです
~あれから…~
「お父さん、お父さん、起きて」
遠くから声が聞こえてくる。左手に誰かの手のぬくもりが伝わってきている。懐かしい感触。あぁ、これは娘だ。僕はどこにいるのだろう、最近めっきり見えづらくなった目をようやく見開くと、少し不安気に労りの微笑みをたたえた娘がいた。「あぁ、もう朝か」ようやく体を少し起こして言うと、娘の隣に居た看護師が体温計を左手首に当てて、にこやかに「娘さん、来てくれて良かったですね。ここのところずっと一人でしたから寂しかったでしょう」
「あぁ、そういえば久し振りだな、元気だったか?」
娘は四十を少し過ぎ、今はフリーランスでライターをしている。基本的に家にいて仕事をしているが、なかなか外に出ることは出来ないでいる。厳しい外出制限が東京にはまだ残っている。2020年に世界的に大流行したコロナウイルスが常在化してしまい、東京だけではなく世界の大都市は20年間ずっと緊急事態宣言のままだ。僕はその時に音楽業界で働いていて、かなり忙しくしていたのだが、感染防止策としてコンサートの全面自粛(実際は音楽業界全体の自主ロックダウンだった)を受け、全く仕事がストップしたままだった。
今の若い子たちに「昔はね、大きな会場でみんな集まってコンサートと言う音楽を聴くイベントがたくさんあったんだよ。夏になると世界のあちこちで何十万人も集まるロック・フェスティバルがあったんだ」なんてことを言ってもまるで信じてもらえない。今やスマホやタブレットの中でバンドやアーティストが歌い踊るのをみんなで見て、演者の方も聴いている人たちがみんな見えていてという、ヴァーチャル・コンサートが主体なのだから。
「お父さん、大丈夫?食欲ない?」娘がまた心配そうに顔を覗き込む。「いや、大丈夫だ。少し昔のことを思い出していただけだよ」箸を取り、完璧に栄養コントロールされた食事に手を付ける。娘はお茶を注ぎながら「お父さんの聴きたかったレコード、これであってる?それと直美さんの写真もあったから持ってきたわ。私とお父さんと直美さん、三人で写っているのよ。最後に行った箱根ね。」娘の菜穂子は楽しげに話していた。直美というのは10年前に他界した僕の二人目の妻だ。菜穂子が大人になってからの再婚だったのでお母さんと呼ぶのもなんだかくすぐったかったのか、最後まで娘は直美さんと呼んでいたが、仲が悪いわけではなかった。むしろそこらの母娘よりも仲がよく、僕が仕事で居ないときなどはよく二人で出掛けていたようである。二人共一人っ子で人見知りなので価値観が合うのだろう。15年前にコロナに感染した直美は、ろくに診察もしてくれない行政のお陰で自宅療養を余儀なくされた。
僕も随分つきっきりで看病したし、抗体を持っている僕の血で血清を作ってくれと何度も行政に懇願したが、「順番待ちです」の一言であっけなく追い返された。そのくせ、大臣などは少し咳き込むだけでPCR検査やワクチン接種など至れり尽くせりだ。現職最長の総理大臣は在職30年を超えるという。まもなく100歳。未だに利権と私利私欲に溺れた男である。毎日正午に放送される総理大臣放送では20年間付けっぱなしの黄ばんだ布マスクをした、恐ろしく滑舌の悪い総理大臣が支離滅裂な事を言って満足げに目尻を下げ五分の放送が終わる。演説が終わるとサイボーグのような秘書らしき女性が総理の車椅子を押して画面から消え去る。国民はもうこの国の政治には何も期待していなかった。というよりこの国の政府は何一つ機能していなかった。僕がいるこの施設は2020年に大量失業した人々の収容施設として世界政府によって各国に開設されたものだ。世界政府はその設立から各国の思惑が絡みまくり、一触即発の状態だったが、コロナ感染拡大を効果的に押さえたスウェーデンとドイツが主導権を握る事になり、補佐として韓国と、いまは完全独立を果たした台湾がその椅子に座り、各国の首脳もその聡明な政治手腕にグウの音も出ないというのが現状だ。そのおかげで、世界人類銀行からベーシックインカムが全人類に支払われ、僕らはこうして暮らすことができている。ベーシックインカムと言っても現金ではない。通貨制度は2025年に崩壊し、いわゆる「お金」というものは価値を持たなくなってしまった。株も証券もただの紙切れだ。
僕らは手持ちポイント減算方式で必要なものを手に入れている。生活必需品は支給、学費、医療費は原則無料。エッセンシャル・ワーカーはポイント優遇とされ、あっという間に世の中から現金は消えていった。妻が臥せっていても僕にはたまに仕事が入ってきたので出かけることがよくあった。文化芸術関係の仕事もポイント付与率はかなり高かった。人々が癒やされる文化芸術は世界政府が生活必需品目に入れてあったからだ。
僕は妻のためにできるだけ多く働きポイントを貯めた。
彼女が望んでいた安楽死を叶えてあげるためだった。
最愛の妻を死なせるために働くのは物凄く辛いことだったが、日々衰えていく妻を見るのはそれ以上に辛いことだった。変な言い方だが、最上級の安楽死というのは、亡くなる日から遡って半年前から始められ、それから最後の日までは苦痛もなく穏やかに過ごすことが出来るというものだった。僕らはこの方法を選択し、半年かけてゆっくり送り出そうと決めたのだった。
実際にその半年を迎えてみると妻の容態は驚くほど改善し、このまま永遠に穏やかな日が続いてほしいと願ったものだが、やはり最後の日は来てしまうのであって、そのジレンマに人知れず悩む日々だった。
妻を車椅子に乗せ、外にでかけ、食事を作り、他愛も無い会話をし、時には「安楽死特別措置」として三泊四日の旅行も許された。そのときに娘と三人で行ったのが箱根の富士屋ホテルだった。
「ねえ、お父さん、レコードプレイヤーの電源ってどこかしら?」物思いに耽る僕に娘が声をかけた。七十を過ぎ、ぼ~っとすることが多くなり、いつも娘を心配させて申し訳ない気持ちになり、そのことを伝えると娘はくすくす笑って「お父さんは昔から家にいる時はぼ~っとしてたじゃない。自分の部屋に閉じこもって本を読んだり音楽を聴いたりして、朝から晩まで同じ格好で座っていたわよね。おばあちゃんとよく言ってたわ、お地蔵さんみたいだねって」
はにかむように笑うその笑顔は小さい頃から全く変わっていない。ホッとする笑顔だ。食事を終え、ベッドから降りて伺を取り娘に支えられながら小さなオーディオセットが置いてある窓辺のソファに腰掛けて、レコードプレイヤーの電源を入れ、娘がレコードに針を落とす。

THE BEATLESのIN MY LIFEのイントロが聴こえてきた。「今日は直美さんの月命日よ。だから直美さんの好きだった曲をかけようと思って」あれから10 年。最後の時は同じベッドに入って妻を僕の胸に抱き、その時を迎えた。
わかっていたとは言え僕は人目をはばからずに泣いていた。妻が僕の人生にもたらした光は素晴らしいものだったから。娘とも仲良くなり、引きこもりがちだった娘を外に連れ出し社交的にしてくれた。どんな感謝の言葉でも足りない。
しかし、あれから20年のうちに世界は激変してしまった。100年経っても変わらなかったようなことが五年とかであっさり変わっていく。今や仕事は家でするもの、会社に出ていくなんてのはよっぽどのこと。第一次産業で働く人は尊敬の的となり、政治家なんてものは世界政府で働く人以外は単なるお飾りとなり未だ威張り散らして強権を振るおうとしているがその権力も利権も財産も全て世界政府に没収され、財産はベーシックインカムや農林水産、医療教育に注ぎ込まれている。世界政府の温情でいくつかの大国は首相の椅子に座っていられるだけの最低限の財産を残されただけだ。
まぁ、おかげで世界はいま静かになり、地球環境もこの20年でかなり改善したと聞く。
僕が住み慣れたこの東京も例外ではない。丸の内に建っていた高層ビルは軒並み姿を消し、皇居前は東京駅を中心とした巨大なセントラルパークになっていた。首都高速はほとんど姿を消し、構造上解体が難しい部分は空中庭園展望台として都民の憩いの場になっている。
ここには最新のウイルス防御シールドが張られ、マスク無しで外の空気を吸うことが出来るオアシスとなっている。
銀座などの繁華街はかろうじて残ってはいるが、かつての繁栄とは違った風景を見せていた。建築は低くなり、オーガニックの食事や洋服、画廊や美術館が軒並み増えて、穏やかな顔に変わっていた。
「さ、お父さん、お風呂に入って出かけるよ」レコードに聴き入り健康タバコ(パイプ型のビタミンミネラル吸入器)を蒸す僕を急かして、シャワールームへ立たせる。
まだ生活一通りは自分で出来るので、娘にもそれほど迷惑はかけていないと思っている。
シャワールームから出ると、ベッドの上には洋服が一式出されていた。いずれも直美と娘の見立てで選んでくれたものばかりだ。下手すると30年以上も前の服もある。
赤い靴下を履き、リーヴァイス501に脚を通し、ラルフ・ローレンのオックスフォードシャツに袖を通し、ツイードジャケットにニットタイ、Dr.Martinのポストマンシューズ。僕の40代から変わらない装いは妻と娘の見立てで生まれたものだった。二十代から使い続けるオメガを腕に巻き、愛用のコロンを吹き、よそ行きの伺をついて娘と二人妻の眠る墓地へ出かけることが唯一の外出となってしまった。出掛け際に娘が僕の髪にさっとブラシを掛けてくれるのも妻がやってくれたことの受け継ぎだった。
初秋の空は雲ひとつなく晴れ渡り、少し冷たい風が頬を撫でる。
若い頃に立った野外ステージの風とよく似ていた。
手際よくハイヤーを手配していた娘が車へと僕の手を引く。その時僕のポケットでスマホのベルが鳴った。
画面に表示されるその名前を見て僕は目を疑った。
(今更なぜ僕なんかに電話を…?)
続く…のかな?
◇ ◇ ◇
さてさて毎度おなじみ太鼓奇談のページでした。
なんかへんだぞ?コロナ自粛でつっちーもついに壊れたかとお思いでしょうが、あながち嘘でもありませんw
この引きこもる長い日々がいつ終わるかもわからず、終わったとしても僕らはもとの仕事に戻れることはないのではないかと思ってしまいます。
そんな中、自分たちの20年後はどうなっているだろうか?なんてことでちょっと小説の真似事みたいに書いてみました。これが続くかどうか、西尾さんと皆様のご要望しだいか、僕の気分次第か…w
とにかく読者の皆様にはご健康と安全でいてください。
#stayhomeで自分と家族、大切な人々を守りましょう。
日々激務をこなされている医療関係者の皆様、各省庁で対応に追われている職員の皆様、生活必需品を売ったり届けたりしている従業員の皆様には感謝の言葉でいっぱいです。毎週必ず来てくれる清掃業務の方々にも。ライフラインを管理してくれる皆様にも。誰かのおかげで僕らは暮らせています。いつかとびっきりのエンターテインメントで皆様の疲れをふっとばす楽しい時間をお送りできる日を心待ちにしています。

■つちだ“つっちー”よしのり プロフィール
1969年生まれ。11歳の頃YMOの高橋幸宏に衝撃を受けドラムを始める。現在はフリーのドラムテック&ローディーとして矢沢永吉、高橋幸宏(METAFIVE,YMO,THE BEATNIKS,etc)、松本隆(はっぴぃえんど)、林立夫(Tin Pan)、細 野 晴 臣、[Alexandros]、Diggy-MOʼ、ピエール中野、RADWIMPS、宇多田ヒカルなどのツアーやレコーディング、FUJIROCK FESTIVALやSUMMER SONICなどの、夏フェスでのステージクルーとしてウロウロしている。 自身のバンド254soulfoodでは定期的にLIVEを行っている。 プレイヤーとしての参加作品はHARRY「BOTTLE UP AND GO」本園太郎「R135 DRAFT」「torch」など。 蕎麦と落語と読書に酒、煙草好きの堅太り。
執筆者:土田 ”つっちー” 嘉範
編集:JPC MAG編集部
