つっちーの太鼓奇談
つっちーの「太鼓奇談」第三十回|短編小説「あれから...」第3話
※この記事は2021年1月発行「JPC 167号」に掲載されたものです。
※カバー画像および、文中の挿絵の一部は、小説を読了した生成AIによって作成されたものです。
主人公「僕」の印象がずいぶん変わってしまった...
「あれから…」第三話
なんとも心地よい秋晴れの日、僕は穏やかな心持ちで田安門交差点の歩道に立ち迎えの車を待っていた。左前を見れば靖国神社。目の前には靖国通りを自動運転車が音もなく走る。歩道橋に登ると日本武道館の上に乗っかった金色の擬宝珠が秋の空に鈍く輝いている。右下を見れば昭和館、その奥に旧軍人会館、僕らの時代には「九段会館」と言われた古風な建築がある。2011年の東日本大震災で被災した九段会館は一旦閉館し、その外装のみを残して屋根からつるぴかの高層ビルが生えてきたような奇妙な複合施設ビルとして蘇ったが、20年以上経った今は殆ど廃墟のような様相を呈している。東京の中心に次々と作られた複合施設は今となっては殆どが残っておらず、街は随分静かになっていた。個人的にこの静かな東京は嫌いじゃない。
後付けで作られたものはどんどん沙汰されていったが、古くからそこここに建っていた古い建築はまだ静かに自分の居場所に佇んでいた。そんな事をボーッと考えていると、目の前に黒い車が止まり、中から僕を呼ぶ声がする。
「よう!待たせたね。乗ってよ」
昔と変わらず明るい声で僕を呼ぶ彼は奥野さんという。僕が二十歳の頃から出入りしていた楽器レンタル会社の社員だ。勿論今は定年退職しているが、若い人たちから絶大な信頼を得ている彼は未だ現役で現場に立っている。今回の武道館公演は彼のプロジェクトだ。高齢者の感染リスクを押しのけてまで、実行したいという思いはきっとこれが最後の大舞台になると思っているのだろう。しかし、この10年において彼の口から何度となく「これが最後の大舞台なんだよ」と聞いたことか。メダカくらいの事をクジラくらいにして面白おかしく話す江戸っ子気質なのか、そのおかげで僕も含め随分楽しく仕事の時間を過ごさせてもらったものだ。
車は靖国通りを新宿方面に進み九段坂上を左に折れ、千鳥ヶ淵をまた左、代官町通りを北の丸に向かって滑るように走っていく。北の丸の手前、左手に旧近衛師団司令部庁舎の煉瓦造りが見える。今は東京国立近代美術館工芸館として佇んでいる。秋の色づく木々と煉瓦造りの景色がとても美しく目に映る。僕の好きな東京の風景の一つだ。北の丸を左に入り右に科学技術館のモダンな建物を横目に進むと大きな木が道の真ん中に立っていて、その木をまだ小学生だった娘は「武道館の門番さん」と言っていた。なるほど改めて見るとその木は、「この先、武道館に付き気を引き締めて参れ」と言っているようだった。その木を過ぎると、右手に武道館が静かに建っている。初めて僕がここを訪れたのは11歳の時、1980年YMOのセカンド・ワールド・ツアーの凱旋公演だった。あの時の感動、いや衝撃は未だに僕の原体験として大きく根を張っている。
武道館関係者入り口奥にある駐車場に車を停め僕らは車を降りた。メンバーは僕と奥野さん、それと舞台設営と舞台監督を努めてくれる30代の若者二人だった。
彼らは初対面だが(実はどうやら何度か会っているらしかったがすっかり忘れていた。申し訳ない)、しっかりとした仕事をする顔つきで、とても信頼できそうだ。関係者入り口のドアをくぐり、正力松太郎の胸像が迎える廊下を左に、階段を下り右に行くと「中央司令室」と書かれた部屋があり、コンサートのときはここがプロダクション本部となる。今日は下見と言うことで、管理の男性が数人勤務しめてくるが、まずは仕事と言うことでこちらも丁寧に辞退した。すぐ目の前にある緑の鉄扉を押し開けるとそこに武道館のアリーナが広がる。

11歳の時は途轍もなく大きな空間に見えたものだが、この世界で働くようになり、武道館のステージに立つと思いの外コンパクトで、ステージからは三階席にいるお客さんの表情まで全部見渡せる、本当に「ライブハウス武道館」と言う雰囲気だ。記念写真をみんなで覗き込んでいるような親密さがいつもこのステージにはある。そして、上を見上げると大きな日の丸が下げられている。僕は国粋主義者ではないが、武道館の日の丸だけは別格だ。日本に武道館あり。なんと言ってもビートルズがここで演奏しているんだからロックの殿堂として文句ないだろう。
YMOの時はライブ終盤にビートルズの「愛こそはすべて」を演奏していて、それはジョン・レノンがダコタ・ハウスの前で銃弾に倒れてからわずか二週間程のことだった。「愛こそはすべて」と世界初の衛星放送で歌っていたジョン・レノンの写真を思い出し、胸が苦しくなったのを今でも覚えている。
そんなことを思いながら武道館のアリーナをウロウロ歩いていたら向こうから僕を呼ぶ声がした。「川内さん、ちょっといいすか?ステージの袖のことでちょっと聞きたいんですけど…」ハイハイと言いながら小走りに向かうと奥野さんが「おいおい走らなくていいよ、コケて死なれたら縁起が悪いよ~!」と大笑いしながら言って、つられて若者もクスッと笑っていた。その場で老人二人と若者二人がアリーナに座り込み舞台図面を見ながらあれこれ話していた。アリーナの床はひんやりとして、その冷たさに背筋が伸びる思いだった。「よし!これで大丈夫ですね!クリスマスの本番に向けて最終打ち合わせができてよかったです。ありがとうございました!」野本くんという若き舞台監督は僕と奥野さんに一礼して図面を丸めて微笑んだ。山本くんという舞台設営担当も久しぶりの大きな現場とあって腕が鳴る様子だ。頼もしい若者がいてくれて僕らも安心だ。
僕ら世代は上の世代から若いというだけで否定されることもあり随分理不尽な思いをしてきた世代なので、自分たちは若者たちに対してそうならないようにと(心がけてきたが、時代の空気)が明らかに変わってきて、何かを学びたいと真剣に思う若者たちにとってネットでの情報量はこの上ない強力なツールとなり、僕らの頃とは比べ物にならないくらいのスピードでいろんな知識や技術を吸収していった。勿論僕らもそのネットの恩恵は存分に利用した。
しかしながら若者達の多くは自分たちに一番足りない事は「現場での経験」だということにも気づいていた。
そこで彼らは当然のことながら現場で働けるよう活動し、僕らの目の前に現れて、現場ならではの技術や知識の使い方、すなわち「仕事の知恵」というものを目の当たりにしたわけだ。それは若かりし頃の僕も経験したことだけど、その衝撃と感動と喜びと刺激は筆舌に尽くしがたいものだった。「ステージをつくる」ということはこんなにも複合的な作業なのかと。例えば朝九時から搬入が始まり、舞台監督はステージのセンターを出し、カーペットを敷き、照明がバトンに吊られ、ステージの両端では大きなスピーカーが積み上げられ、これが衝撃だったのだが、スピーカー同士を動かないように直接釘で打ち付けて固定するという荒業を目の当たりにした時、僕は思わず大笑いしてしまったのだった。後から音響の大先輩に打ち上げの席で「お前は何を観て大笑いしていたのか」と問い詰められ、その事を言ったらその大先輩は「確かにデカいスピーカーに釘を打ち込んでいたらそりゃ笑うよなぁ」とビールジョッキをぐいっと飲み干し笑っていたっけ。
照明や幕などを吊ったバトンが全部飛ぶと舞台セットの組み上げだ。ドラム台、キーボード台と鉄骨を組み合わせてあっという間に組み上がり、天板を乗せ、ドラム台には振動吸収のアスファルトマットを敷き詰めめてからパンチカーペットを敷いて、ドラムセットを載せる。
ここで大体10時半か11時位か。
舞台でステージクルーがワイワイ仕込んでいる時、楽屋の方も負けじと大騒ぎで仕込んでいる。アーティスト本人の楽屋、サポートバンドの楽屋、クルーのための楽屋、各食事の支度、搬入からの激しい労働で乾いた喉を潤す飲み物をクーラーボックスに入れていち早くスタンバイ。同時に温かいコーヒーも欠かせない。
「よーいどん」で搬入された山のような機材が右へ左へ上へ下へと行き交う中、自分たちの担当する楽器を安全で落ち着いて作業できる場所を確保して移動して、ギターの弦を替えたり、ドラムのヘッドを替えたり、汗で濡れたダメージをメンテナンスしたりと、ステージが出来上がるまでの時間、僕ら楽器テックも大忙しだ。僕はいつもハードウエアのチェックをして、ドラムたちはケースの上に出しておき、その「場」の空気を吸わせて馴染ませる。袖ではチューニングはしない。派手に緩んでいるネジなどをチェックするくらいだ。ハードウエアは破損がないか、緩みがないかをチェックする。楽器をステージにセットして、電源が繋がれ電圧と電源ノイズや位相をチェックして、各パートに電源が配られたあたりでちょうどお昼。ステージに散らばっている楽器ケースなどを袖に片付けて(この時の片付けですでにバラしが始まっている。効率的にバラす段取りを考えてケースをしまうわけだ)ここで一旦昼食。
照明のシュートやデータ打ち込みでだいたい午後二時くらいまではフリータイムとなるが、余裕があれば昼寝タイム。これが結構大事だったりする。楽器テックにはチューニングルームという部屋があてがわれ、弦を替えたり、調整したりとする作業部屋になるわけだけど、ドラムはほぼ袖とステージ上で完結するのでドラムテックにとっては憩いの部屋となっているのが現実。とは言え、セットリストを作ったり細かい作業はいっぱいある。
ポートバンド(※原文ママ、恐らくサポートバンドの意)がほとんど外人だったのでバックステージは日本語と英語が飛び交う楽しい場だった。
三時くらいからサウンドチェック、リハーサル。前回のステージからの直しや気になるポイントを復習。四時半くらいにリハーサルが終わり、開場時間の五時半くらいまで各自スタンバイに入る。早めの晩飯という人もいるし、翌日の仕込みの準備をする人もいる。のんびり過ごす人も。
そうこうしている間にいよいよ本番だ。ざわつく客席を感じながら本番直前の楽器チェック。僕はなるべく音を出さずにやる派で、中には派手に音を出してやる人もいる。どちらがどうということはないけど、僕は殆ど音を出さない。30年ほど前から当たり前になってきたイヤモニのチェック、クリックのチェック、キックペダルやハイハットスタンドなどの足回りチェックだけ確実にやって本番を待つ。
アナウンスが入り一層ざわつく客席の照明を間髪入れずに暗転に切り替えたその瞬間の歓声は何度聞いても鳥肌が立つ瞬間だ。シンプルで豪快なドラムフィルが放たれ、曲が始まり、たっぷりと余裕を持って登場するアーティスト。歓声が悲鳴に変わる瞬間だ。みんなの顔が輝きを増す瞬間。これも何度味わっても飽きることない至福の瞬間だ。
コンサートが無事大盛りあがりで終われば、今度は光の速さで撤収だ。仕込みの逆を早回しのごとくバラしていく。11tトラック五台分の撤収は大体一時間半前後だ。
積み込みが終わればホテルに帰るか、そのままツアーバスに乗って次の街へ向かう。外人バンドと僕ら楽器テックには暗黙の掟があって、「テックのためにバンドに用意された缶ビールを数本残しておく」というものだった。これもまたバラしの間にホテルに帰るバンドを見届けた後に、すっとバンド楽屋に忍び込んでお目当てのビールとケータリングの食べ残しを適当に包んで持ち帰る。フードロスが減るとケータリングのお姉さんには喜ばれるし、僕らもタダで飲み食いが確保できるので一石二鳥だ。
ツアーバスに乗って、トラベリン・バスの車窓から見る風景、国道沿いでも真っ暗で所々に民家の灯りが灯っている。その一つ一つには人々の暮らしがあり、家族の営みがあるわけで、家族を置いて旅鴉(たびがらす)の僕らはそんな風景を見ると、いつも妻や子供たちや恋人の顔を思い浮かべて、たまらなく切ない気持ちになる。それでもやめられないこの仕事の魅力はやっぱり音楽と音楽を好きな人々のかかわり合いなんだろう。
日がとっぷりくれた東京の街を滑るように走り、同乗していた奥野さんの自宅で別れた後、残された僕は何だか帰りたくない気持ちになり、運転手に無理を言って内堀通りから外堀通りを流してもらっていた。
気がつけば僕が直美と住んでいた街のあたりを走っていた。坂道に横たわるその街の風景を目にした途端に、胸が締め付けられるような恋心が僕の体を満たすのを感じていた。思わず僕は車を止めてくれと頼み、久しぶりにその街に降り立ったのだった。
◇◇◇
第三話、いかがでしたでしょうか? 引き続き皆様の安全と健康をお祈り申し上げます。 寒暖の差が激しくなってきましたのでご自愛くださいませ。

■つちだ“つっちー”よしのり プロフィール 1969年生まれ。11歳の頃YMOの高橋 幸宏に衝撃を受けドラムを始める。現在はフリーのドラムテック&ローディーとして矢沢永吉、高橋幸宏(METAFIVE, YMO, THE BEATNIKS, etc)、松本隆(はっぴぃえんど)、林立夫(Tin Pan)、細野晴臣、[Alexandros]、Diggy-MO'、ピエール中野、RADWIMPS、宇多田ヒカルなどのツアーやレコーディング、FUJI ROCK FESTIVALやSUMMER SONICなどの夏フェスでのステージクルーとしてウロウロしている。 自身のバンド254soulfoodでは定期的にLIVEを行っている。プレイヤーとしての参加作品はHARRY「BOTTLE UP AND GO」、本園太郎「R135 DRAFT」「torch」など。蕎麦と落語と読書に酒、煙草好きの堅太り。
執筆者:土田 ”つっちー” 嘉範
編集:JPC MAG編集部
